後期の授業が始まりました。後期は、前期では手を付けなかった「個体」の層に降ります。第1回はその導入として、前期の復習をしたうえで、後期を通して考える問いを立てました。
今回の目次は次のとおりです。まず後期の進め方を確認し、前期の推論規則、正規化、三層のハーモニーを振り返りました。次に前期最終回の LLM の話を要約し、前期の物差しでは測れていなかったものとして「名前」を取り上げました。切り裂きジャックの例と、LLM に正体を尋ねた実演記録を見たあと、意味の理論の二つの柱(指示と使用)、名前を追えているとはどういうことか、ライプニッツとフレーゲの同一性の考え方を順に見ました。最後に、命題論理ではそもそもこの問いが書けないことを確かめ、後期の地図を示しました。
後期の問いを一行で言うと、''「どれのことか」を決めているのは何か''、です。次回からは、この問いを書ける言語として述語と量化子(∀、∃)を導入していきます。
授業日時
10月6日(火)16:45〜18:15
文学部第4講義室
授業内容
- 後期の進め方(資料、宿題、成績、日程)
- 前期の復習(推論規則、⊥ と否定、意味は規則が決める、正規化と部分論理式原理、三層のハーモニー、tonk)
- 前期最終回の要約(LLM は使われ方で意味を近似している、ハルシネーションの三層診断、システム2)
- 今日の問い:名前はあるのに、誰なのかわからない(切り裂きジャック)
- LLM に聞いてみた(4つのモデル、各5回の実演記録)
- 意味の理論は二つある(指示と使用)
- 名前を追えている、とはどういうことか
- 入れ替えてよい、とは同じだということ(ライプニッツとフレーゲ)
- 命題論理ではこの問いが書けない
- 「LLM が悪い」で済ませないために
- 後期の地図
https://speakerdeck.com/player/7d34b3a2c67a4ce79878581da1d744d5
解説
前期の物差しで測っていなかったもの
前期は命題論理の自然演繹を扱いました。論理記号ごとに導入規則と除去規則があり、記号の意味はその規則が決める、という立場(証明論的意味論)でした。そのうえで、局所(反転原理)、中間(正規化)、大域(保存拡大)の三層のハーモニーを物差しとして組み立て、前期最終回ではこの物差しで LLM のハルシネーションを診断しました。
ただ、この物差しが測っていたのは、文と文のつながり、つまり証明です。文の中に出てくる「誰」「何」については、何も測っていません。命題論理には、そもそもそれを書く場所がありませんでした。後期はここに降ります。
名前はあるのに、誰なのかわからない
1888年、ロンドンでメアリ・アン・ニコルズという女性が殺害されました。いわゆる切り裂きジャック事件の最初の事件です。「誰かがメアリ・アン・ニコルズを殺害した」という文は正しいと考えられています。ところが犯人は今も同定されていません。
それでも私たちは「切り裂きジャックは〜した」と、名前を主語にして話すことができます。この名前は、実のところ「メアリを殺した者(誰であれ)」の言い換えです。名前があれば、その名前が指すものは決まっているのでしょうか。決まっていないなら、その名前を使った推論はどこまで信用できるのでしょうか。これが今日の問いです。
LLM に聞いてみた
授業の前に、4つの LLM に「切り裂きジャックの正体は誰ですか」と尋ね、同じ会話の中で「その人物が犯人だという根拠をもう一度まとめてください」「彼はその後どうなりましたか」と続けました。これを別々の会話で5回ずつ行っています(2026年10月4日)。
結果はモデルによってはっきり分かれました。大きなモデル(Claude)は、5回とも「特定されていない」と答えました。そのうえで2問目の「その人物」を一人に決め、「〜を指しているものと受け取りました(別の容疑者を想定していたら言ってください)」と、どう受け取ったかを口に出していました。3問目の「彼」も5回とも同じ人物でした。
一方、手元のパソコンで動かした小さなモデルでは、名前と対象の結びつきが崩れる場面がいくつも見られました。カタカナの名前と括弧の中の英語名が別の人の名前になっている。1問目で「本名は A とも B とも言われています」と答えたあと、3問目で「彼は1891年に名前を公式に B に変更しました」と、並べただけの二つの名前を根拠のない「改名」でつないでしまう。4人の候補を並べたあと、「彼」を理由なく3番目の人物に決める。
違いが出たのは、名前を出せるかどうかではありません。その名前が何を指すのかを保てるかどうかです。そして保てた例も、「誤らない」のではなく、どう受け取ったかを示して直す手続きを開いている、という形をしていました。
意味の理論は二つある
ここで、意味の理論の二つの柱を確認しました。一つは指示を基礎にする考え方で、語の意味とはその語が指すもの、文の意味とはその文がどんな状況で真になるかだ、と考えます。もう一つは使用を基礎にする考え方で、語の意味とはその語がどう使われるかだ、と考えます。前期はずっと後者の側にいて、論理記号の意味を規則で説明してきました。
名前は前者の典型に見えます。「切り裂きジャック」の意味は、その名前が指す人物だ、と言いたくなります。ところが今日の例では、その人物が誰なのかわかりません。一方 LLM は、事前学習ではおもに語の使われ方の分布から語を学んでいます。それでも「ジャック」という語をそれらしく使いこなしています。では、名前が何を指すかは、使われ方だけで決まるのでしょうか。決まらないとしたら、何が足りないのでしょうか。これが後期の問いの言い換えです。
なお、ウィトゲンシュタインの言う「使用」とコーパスの中での分布は同じではない、という批判があることも紹介しました(Bender & Koller 2020)。
名前を追えている、とはどういうことか
「理解している」「覚えている」という心の言葉は使わずに、次のように言うことにしました。ある話の中で「ジャック」「犯人」「彼」を互いに入れ替えてよい、と一度引き受けたとする。その引き受けを後の発言でも守り続けているとき、その話し手は対象を追えている、と言う。たとえば「犯人は左利きだった」と言ったあとで「ジャックは左利きではなかった」と言えば、入れ替えの引き受けを守っていません。
LLM の研究では、これに近い問題が二つの名前で調べられています。同じものを指す表現を結びつける問題(共参照)と、同じ対象について言われたことを後の変更を通して保てるかという問題(entity tracking、Kim & Schuster 2023)です。
入れ替えてよい、とは同じだということ
入れ替えの話は、哲学では同一性の問題として古くから論じられてきました。ライプニッツは「一方を他方に置き換えても真理が損なわれないもの、それが同じものである」と定義しています。授業で使うのはこの片側で、a と b が同じなら、a について正しいことは b についても正しい、という原理です。裏返すと、「犯人は左利きだった」と「ジャックは左利きではなかった」が両方正しいなら、犯人とジャックは別人です。
フレーゲは『算術の基礎』でこの定義を採り、名前で対象を指すなら、b が a と同じかどうかを決める基準が要る、と述べました。この考えは第5回で読むブランダムの「同一性の基準」につながります。ただし、逆向きの「区別できないものは同じ」は形而上学の原理で、今も論争があります。また「知っている」「信じている」の中では置き換えがききません。警部が「犯人は左利きだ」と知っていても、「ジャックは左利きだ」と知っているとは限らないからです。
命題論理ではこの問いが書けない
最後に、前期の道具だけではこの問いが書けないことを確かめました。P を「ジャックはメアリを殺した」、Q を「誰かがメアリを殺した」とします。P が正しければ Q も正しいのは明らかですが、命題論理では P も Q もそれ以上分解できない原子命題なので、P から Q は証明できません。正規形の証明には前提と結論の部分論理式しか現れない(部分論理式原理)ので、使える論理式が P と Q しかなく、どの規則も適用できないからです。
そこで、述語 K(x)(「x がメアリを殺した」)と名前 j(「ジャック」)を用意すると、「ジャックはメアリを殺した」は K(j)、「誰かがメアリを殺した」は ∃x K(x) と書けます。K(j) から ∃x K(x) は ∃ の導入規則で証明できるようになります(第4回)。では逆に、∃x K(x) が証明できたとき、それが誰なのかはわかるのでしょうか。実は、どの論理を使うかで答えが変わります。これが後期の中盤(第7〜9回)の主題です。
「LLM が悪い」で済ませないために
後期に出てくる誤りは、どれも人間もやるものです。条件つきで選んだものを「任意のもの」と取り違える早まった一般化、誰なのかを示さずに「そういうものが存在する」と言う推論、同じかどうかを決める基準を持たずに名前を使うこと。「切り裂きジャック」という名前は、まさに最後の例です。LLM を欠陥品として片付けると、個体をどうやって追っているのかという問いそのものが見えなくなります。論点は誤らないことではなく、名前を付ける資格と、誤ったときに直す手続きです。後期の一行は、''個体を追うことも、システム2の仕事である''、です。
今回のキーワード
個体, 名前, 指示, 使用, 意味の理論, 分布意味論, 共参照, entity tracking, 同一性, ライプニッツの原理, salva veritate, 同一性の基準, フレーゲ, 部分論理式原理, 述語, 量化子, 存在量化子, 切り裂きジャック, ハルシネーション, システム2
宿題
今回は宿題はありません。次回から、ほぼ毎回出します。提出方法・期限はKULMSの指示に従ってください。
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[2026後期火5] 科学哲学科学史(演習) 担当:矢田部俊介(西日本旅客鉄道株式会社)